読書ノートって必要なんだっけ?手段に捉われ「本を自分に混ぜる」プロセスが停滞化していないか
ここ数年、本を読む際はScrapboxで読書ノートを作成している。
著者や発行社などの情報を簡単にまとめ、章ごとに気になった箇所を記載する程度の簡単なものだ。
ただ最近、これがあまり意味の無い行動ではないかと疑っている。
過去にもEvernoteやNotionなど、さまざまなメモツールを試してきた。しかし、それらで作成したページを後から参照して、有意義だったといえる体験を思い出せない。
Scrapboxのように情報にラベリングし、分類して共通を見出していく作業は楽しい。
めんどくさい面もあるが、作成しているその時はなんだか情報を構造化できている感じがして、楽しくなってしまう。
ここで読書の目的を改めて考えてみると、ざっくりではあるが概ね3つに分類できると考えている。
- 「視点」を得て、行動規範を修正する
- 「知識」を得て、具体的な行動を導き出すための判断材料を獲得する
- 「スキル」を得て、具体的にできる行動の範囲を広げる
「視点」でそもそもの行動規範・価値観を見直し、「知識」で客観的判断の精度を上げ、「スキル」を身に付けて自分にできることを増やしていく。
必ずではないが、1がビジネス書、2が一般教養、3が技術書といったところか。
どういった目的であれ、読書というのは自分と本の間にあるものを認識して、さらにその間を埋めていく作業である。
であれば、本に書かれていることを単に書き出しても、それは本を外側からなぞっているにすぎない。そんな時間に、あまり意味は無いのではないか。そんなことを考えている。
それよりも、本を通じて思考し、
- 「視点」であれば気付きを自分の言葉で書き出し、別の思考のタイミングで引き出して使えるように構造的に理解すること
- 「知識」であればより多くの本を読んで全体像を描き出したうえで、枝葉の知識も少しずつ広げていくこと
- 「スキル」であれば実際に手を動かし、趣味や仕事へ活かしていくこと
このようなゴールを設定し、ものにしていく方がよっぽど価値があるのではないだろうか。
そう考えた時に、はじめて「メモって必要なんだっけ?」という話で、
ビジネス書なら大きな気付きを得た箇所を自分の言葉でブログに書く方が良いし、
教養書はたくさん読んで全体観をまず掴み、さらに掘り下げたい場合はより難しい専門書へ進む。
技術書は具体的に実行するものをどんどんGTDに組み込んで、実行していかないとあまり意味がない。
と、ここまで書いておいてなんだが、読書ノートが効果的でない要因は、この視点・知識・スキルというものが混ざって押し寄せてくる点にあると思う。
視点を得るつもりで読んでいた本から知識を得たり、知識を得るつもりで読んだ入門書が楽しくてスキルに転化したり。
そう考えると、やっぱり読んだうえでいろんなことをして混ぜて熟成させる必要があるんだと思う。
思えば、これまで自分に影響を与えてきた本は、課題や疑問といった動機が強い状態で手に取った本である。
それは片付けができない自分に向き合い方を教えてくれたり、全く新しいプロジェクトに立ち向かう上での地図を授けてくれたり、気分をコントロールできない時期に人生との向き合い方を教えてくれたりした。
当たり前だが、読んで考えて実行してもがいてはじめて、それらは私のものになったのである。
自分用にメモやノートを取るという行動は、あくまで実行手段の一つでしかない。その一つにこだわってしまうと、「本を自分に混ぜる」というプロセスが停滞してしまうということか。
手段を固定してしまうと、ランダム性が失われてしまう。
読書ノートについては一時休止し、下記のようなイメージで本を活用してみようと思う。
- 得た視点は熱量あるうちにブログに書く
- 乱読スタイルを強化し、知識は量で補完する
- ベビーステップ的に小さなアクションに繋げ、スキル化していく
読書をどう実際に役立てるかを考えるうえでは、下記あたりの本が有益でした。こんなに楽しくて有益な趣味も無いので、より効果を最大化させたいという話。
そんな感じ。